わたくし事(ブログ)

【 両親に感謝 】3月28日は父の1周忌でした

昨年、がんのため亡くなった父 3月28日は命日でした。 まったくのプライベート記事ですが、年末に書き込んでいたノートをここに記録して、刻んでおきます。m(__)m

他界した父との思い出と両親への感謝 

入院7日目は自宅に帰る気満々でした


2020年3月28日 午後  入院先の国立中央病院の1室
世の中は、新型コロナの渦の初期のころ、、見舞いの人の数を制限したり、 感染対策をし、人の出入りが敏感になっている時期でした。

  母と私、様態を聞きつけて飛んできてくれた叔母、甥っ子
ベッドには、酸素マスクをつけ大きく呼吸をする意識のない父がいました。

3日前に、病室に行ったときは、眼鏡をかけて、足の爪をハサミで切りながら
私の顔を見るなり 「おおー、もう家に送って帰ってくれよ」
と、すぐにでも家に帰りたいと言っていました。

腰の痛みが取れて、楽そうだったので、「良かったなー痛みが楽になって」と言うと、
「わし、何しに来たんかいな?」 と、とぼける始末。
母と、顔を合わせて苦笑しました。

少し元気になったなら、退院できるかと、私もそう思っていましたが、
翌日、主治医から私に電話があり、肺の水がだいぶ溜まっていて、心臓も弱くなっている。
あまり長く持たないと思います とのこと。

翌日、一旦、見舞いに行くも、ずっと付き添っている母から、 ご飯も食べずに、ずっと寝ている ということを聞きました。
すやすやとよく眠っていました。

そして、私が帰った後・・・・・
突如起きだし「家に帰る」と、ものすごい剣幕で棚から衣類を引きずり出したそうです。

しかし、その次の日、担当医から再び電話、酸素の供給量が増え、もう1日持たないかもしれない
と言われました。

付き添いの母に電話し、すぐに病室へ行くと、

もう、酸素マスクをつけた顔が、大きく波をうち、見る間に数字が下がっていきました。
その呼吸は、徐々に、静かに尽きていきました。

「ありがとう」とお別れの言葉をかけました。

気丈な母は涙は見せず、56年間の連れ合いとの最後の時を受け止め、
その最期をしっかり看取っていました。
85歳の生涯でした。

外ズラの良い父でした


いわゆる・・・「厳格な父」 ということも無く 「子煩悩な父」でも無く
一言でいうなら、「自分勝手な父」 といった感じです。
自分勝手だけども、どこか憎めない・・・ ピュア部分がありました。

友達付き合いがよく、誘われたら断れないたち、けれども、面倒見が良いわけでもなく、力を貸すわけでもなく・・・
その気の利かない、力の抜け具合が、友達受けしていたのかもしれません。

常日頃は子供のことなど見向きもしないくせに、1月9日の私の誕生日にはなぜか、同僚を連れてくる。
自分からは「おめでとう」は決して言わず、同僚のおじさんからプレゼントを渡させる
奇妙な遠まわし誕生会が数年繰り返されました。
「何なんだろう、このおじさん 優しいなぁ、こんなの親からもらったことない^^」
  父からの不器用で人任せな、私へのお祝いだったのかもしれません。

たぶん想像するに… 「今日は娘の誕生日でな、 ほな、うちで飯でも食うか?」と、
飲む口実を作っただけであろうと、、、
それを聞いて、手ぶらで来れないおじさんはいつも、女の子っぽいプレゼントを、
風呂上がりの火照った赤ら顔の娘に ニコニコしながら渡してくれました。

私の父は、戸籍上は三男だけれども、田舎の跡取り というババを自ら引き受けた、
兄弟の中では、一番のお人好しで、物事を天秤にかけないところがありました。

荷の重い儲からない水田と、200年物の家だけが財産。

苗字からして神社の出 だったようですが、戦前、戦中、戦後と、
豊かではなかったようです。
夫を早くに病死で亡くした私の祖母は、女手で6人の子供を育てました。

 一方、嫁いできた母は、山間の自然豊かな温和な家庭の次女
公務員だった父親(私の祖父)は戦争から帰還し
そののち、自宅で開業をした、地域でも名の知れた家でしたが、
母親は早くに亡くなったようです。

母と祖母との関係は、子供心にもうまくいっていないことはわかりました。
間に立つ父は、何のツッパリにもならず、子育て中も友達とマージャン三昧を楽しんでいる有様で家を空ける日が多いようでした。

私の記憶に残っているのは、足の指にガーゼを挟んで 包帯をぐるぐる巻き、
薄ピンク色の木造の診療所から足を引きずりながら、帰っていく自分の足元の光景。

母のいない冬の夜。私は足に大やけどを負いました。
 どうやら、母親は弟を連れて実家に数か月帰っていたようで、その間の出来事でした。

堀こたつに練炭を入れ、お鍋を載せていたようです。
  父の膝に座っていた私は、夜のお客さんが来たので、飛び出した。
その時でした。
  想像するだけで 痛い!!

しかし、これがきっかけで、母がまた、家に戻ってきました。
相変わらず、家庭はぎくしゃくし続けましたが、
母は60歳過ぎまで 仕事をし、家計を支え、祖母の9年間の入退院生活と看取りをしました。

いい事は、何も無い わたしだったら、暮らせただろうか?
この家庭で、、、、、
たぶん無理!

ただ、子供たちがいることで 家庭が成り立っているだけでした。

私に響いた唯一の「父の言葉」


私は幼いころは 父親が怖かった記憶があります。機嫌のよいときは、たわいない会話をするも、
テレビ見ているときに、こちらの会話が大きくなると 怒鳴る! ご飯を残すと、怒鳴る!
泣き出すと、夜でも外に追い出す。
  実際に叩けれはしなかったけれども、常に、こぶしを上げる格好や、親指にはあーっと息をかけ、
つねるような恰好で子供たちを、萎縮させていました。

ただ、機嫌のいいときには、遊園地や釣り、小旅行にも連れて行ってくれました。

高校に入り、ぼやぼやと過ごした3年間でしたが、進路は県外の専門学校に決めました。
父の訳の分からない反対もありましたが、何とか納得してもらいました。

高校3年年生の冬 クリスマス会ということで食事会をした帰り、ある事故が起きました。
翌日、連帯責任ということで、クリスマス会で食事していた人全員と、保護者が学校の校長室に呼ばれ、
自宅謹慎処分を受けることとなりました。
冬休みだったこともあり、クラスメイトに知られることはありませんでしたが、
自宅謹慎とはいえ、謹慎を受けるということは、

ブラックなレッテルを貼られてしまった!! 親に申し訳ない
そう思って、いました。
本当にご飯を食べただけのことなのに。。。卒業前のこの時期に謹慎とは、、、、と頭の中をぐるぐる。

ちゃんと卒業できるんだろうか?
そんな不安がよぎりました。

しかし、帰宅した父が 一言、私に 
「お前は、根がまじめな子やから、信用しとる」
と言ってくれました。
いままで、さんざん放任しておいて、ここで父親の威厳を出してきました。
この言葉は 人生で一番私に響いた 唯一の父の言葉 です。

人生の節目に父の存在があった


高校、専門学校と卒業後、大手アパレルに就職し、母はとても喜んでいました。 たまには都会に来て息抜き(ガス抜き)ができる
と、私のことを応援してくれていました。

しかし、都会の生活8年目にして、私は地元に帰ることにしました。

無関心、放任の父ですが、娘が返ってくるんならと、
都会の地に足を運んで、帰るための手配をしてくれました。

重たい荷物を運ぶでもなく、ご飯をご馳走してくれるでもなく
  ただ来てくれただけですが、ありがたく思っています。

私は、結婚し、2年目に長男が誕生しました。

夫は転職をし少しずつスキルをアップしていき忙しくなっていきました。
  長男が誕生して、実家に帰るときは、産院へは父が車で迎えに来てくれました。

初孫です。
 うれしいのか?、楽しいのか? その感情はよくわからないものの、
  帰省中の1か月は寝ている孫の顔をちょこちょこ見に来ては
抱っこするでもなく、ミルク飲ませるでもなくただ、見るだけ。

  ただただ、それでも娘に帰った気持ちで 穏やかなひと月が過ごせました。
 

3年後、実家の祖母が9年の入退院を繰り返し、92年の生涯を閉じました。
すべての世話を母にまかせっきりの父でした。 ほとんど見舞いにもいかなかった
人の世話が苦手な父でしたが、祖母の葬儀は立派に勤めました。

私の人生分の「ありがとう」を両親に贈ります。


この父にずっと添い遂げた母という人は、この忍耐、というべきか、
欲を消した人生というものには脱帽ですが、
周りと比べず、マイペースに、寡黙に生きられる 
ある種、才能があるんだと思えています。

父が亡くなってからも、植え残した稲を水田に植え、田畑で野菜を育て、
気丈に生活を続けています。

倹約な両親は、少しばかりですが遺産を残していてくれました。
先日、帰省した時に
 「こんな使わんお金が残ってあるなら、
もっとおいしいものを食べさせてあげたらよかった」 
と、ぼそっと 悔やんで言っていました。

父の晩年の最後の1年くらいは 食事があまりできずに痩せていました。
焼酎だけは、入院するまで晩酌していたようですが。

私は、子育てや、自分の仕事と、夫の会社設立など、忙しくしていて、
あまり親孝行ができませんでした。 最後の正月も東京から息子が帰ってきたものの、
夫の会社で寝泊まりをしていたので、実家には行けなかった。
けれど、
最期の病院の送り迎えができただけでも、私は報われた気がしています。

歩行が難しくなった車いすに座る父を、白髪の母が押す。その姿が、今も脳裏に焼き付いています。
その2人の背中に 「ありがとう 今まで生きていてくれて」と
心でお礼を言っていました。

残った力で、すごい剣幕で病室の服を散乱させ 家に帰りたかった父、
焼酎を飲みたかった父
自分勝手で、お人好し、外ズラがよく、内弁慶、
出ていったら、翌朝まで麻雀し、帰ってこない
上げ膳据え膳で「茶、飯」と、母を操縦し、家事の一切は母任せ
 
こんな人とだけは、結婚したくない!!
わたしにとって、反面教師ぶりが半端ない人でした。

しかし、人の悪口は一度も、誰のことも、、、父からは聞いたことが無い。
そのことだけは本当に尊敬できます。

私がこの年になるまで、生きていてくれて ありがとう!
  私の人生分の ありがとう!を ここに刻みます。

ABOUT ME
mint
【ダンス衣装クリエイター】Mintです。  四国の田舎に暮らし、自宅アトリエで一人でコツコツダンス衣装を作っている 「カットソー専門、ひとりアパレル」です。 創作した衣裳で、全国のパフォーマさんが活躍する姿を楽しみにしています。 当ブログでは、衣装つくり13年以上の経験と、デザインから製作する過程や苦労話、カットソーの大胆かつ繊細な作り方をお伝えしていこうと思っています。プロフィール記事は↓ 【ダンス衣装クリエイター】mintです。  プロフィール記事  

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